2013年12月03日

全く自由に何の妨げもなく(使徒28章11−31節)

「全く自由に何の妨げもなく」
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フラッシュプレイヤーの見えない方

新約聖書の使徒言行録を読み続けまして、私どもはパウロの歩みをたどって参りました。2005年のイースターの後から、使徒言行録を読み始め、昨年の5月頃からようやくパウロが登場し始めました。その歩みも今日で終わりです。パウロはついに念願のローマに到着しました。

先週までのころです。船旅でローマに向かったパウロたち一行ですが、船が嵐で難破してしまったのでした。そして流れ着いたマルタ島で、パウロたち一行は冬を過ごします。そして、そこからエジプトのアレクサンドリア船籍の船に乗り換えることができたのでした。

季節は春になり、今度の船旅はたいへん順調であったと記されておりました。

マルタ島から、シチリア島のシラクサへ、そしていよいよイタリア半島の南端に位置するレギオンに至ります。そして、さらに海路、ローマ目前のプテオリへと至り、そこで、兄弟たち、キリスト者の仲間である兄弟たちに請われて、七日間滞在したとありました。そして、いよいよローマの町にたどり着いたのです。


今日の聖書箇所の最後のところ。
パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
(使徒言行録第28章30−31節)


これはすばらしいハッピーエンドではないでしょうか。パウロが望んでいたとおり、「全く自由に何の妨げもなく」、御言葉を伝え、宣教の生活をする。使徒言行録を閉じるにふさわしい言葉であると思うのです。

しかし、私どもは知ってもいるのです。ローマ皇帝ネロによる迫害のもと、西暦64年、パウロは、剣により首を切られ、殉教の死をとげたのです。使徒ペトロも同じ頃に、逆さはりつけの十字架刑で処刑されました。ローマ帝国に住むキリスト者たちにとってたいへん厳しい時代でした。

今、ごいっしょにお読みしております、使徒言行録は、その出来事よりもずっと後に書き記されました。

なぜ、使徒言行録のおしまいに、使徒パウロが殉教の死を遂げたことを書いて終わらなかったのでしょうか。

こういう話を聞いたことがあります。力強い宣教の仕事をしたパウロ。その残酷な最後を、使徒言行録を書いたルカは書き記すことができなかったのではないかという説です。
ローマにたどり着き、自由に宣教をしたというハッピーエンドにしたかったと言うのです。

しかし、隠し立てできることではありません。一冊の書物の上から隠したところで、誰もが、ローマにたどり着いたパウロに、後に何が起こったかを知っているのです。

わたしは、ルカが、パウロの殉教を隠したのでも、書きたくなかったのでもないと思うのです。

…訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。


これこそが、パウロの生涯が残した者。パウロの生涯そのものであったという、使徒言行録を書き記したルカの主張であったのではないかと思うのです。

たとえ、後に捕らえられ、剣で命を奪われ、殉教の死を遂げたとしても、パウロが「全く自由に何の妨げもなく神の国を宣べ伝え」たこと、その光は、何らかげることはないのです。

ここに、私どもは、大きな、教えを、勧めを、励ましの言葉を読むことが出来ると思います。

たとえ、どんなにつらい時を過ごしていたとしても、たとえ、その人が死んでしまったとしても、神の国を宣べ伝える、この光は色あせることはあり得ないのです。

死を乗り越え、苦難を乗り越え、危険を乗り越え、神の御言葉は耐えることなく、雲のようにおびただしい数のキリスト者たちを通してたしかに語り伝えられるのです。

パウロがしたように、荒波を乗り越え、船の難破をも乗り越えて、確かに、この世という海を、キリストの教会は全世界へと向かって乗り越えていく。まさに使徒言行録全巻のテーマです。

ある注解者は書いています。パウロの裁判はどうなったのですか。パウロは死刑判決を受けたのですか。それとも釈放されたのですか。しかし、ルカは、あまりにも、良い、立派な、パウロの弟子であったというのです。ルカの関心事は、福音がどうなるかということでした。

自分の目の黒いうちになどという言い方はあり得ません。一人の人の個人的な運命でない。それがたとえ使徒のことであっても、それがたとえパウロのことであっても、福音とそれがこの世界でどうなっていくのかに対しては、まったく重要ではあり得ないのです。

もし使徒言行録のおしまいに不満があるとしたら、その考え方は、私どもの方が聖書的ではなく、考え方が間違っているという証拠でしかあり得ない。

福音は世界の中心といわれたローマで全く自由に何ものにも妨げられることなく宣べ伝えられる。このことにこそ、私どもは感謝し、喜ぶのである、とこの人は言うのです(ヴェルナー・デ・ボーア)。

パウロがこの世に残したもの。それは悲劇的な殉教者パウロでもなく、ローマ帝国による迫害のもと生きたキリスト者でもなかった。世界の中心とされたローマに至り、何ものにも妨げられることなく、全く自由に、信仰について、キリストについて語る伝道者パウロであったのです。

西暦64年。皇帝ネロの迫害のもと、剣によって処刑された使徒パウロの遺体は、伝説によれば、同じく、処刑された使徒ペトロの遺体とともに、アッピア街道と呼ばれるローマのもっとも主要な街道沿いの地下墓地に、さらなるキリスト者迫害によって、その遺体が損なわれることをさけるために隠されたと言います。

そして後に、ペトロの遺体は、ヴァチカンの、現在、聖ピエトロ大聖堂があるところに、そしてパウロの遺体は、もうひとつのローマ街道、オスティア街道沿いに葬られたと伝えられているのです。

……[ローマ 28日 ロイター] ローマ法王ベネディクト16世は28日、ローマの聖パウロ大聖堂の墓の中から、1世紀か2世紀の骨の一部が見つかったと発表し、これにより聖パウロの遺骨がこの墓の中に納められていることが裏付けられたと述べた。

 キリスト教では、使徒パウロの遺体は聖ペテロと共にアッピア街道の地下墓地に埋葬され、聖パウロ大聖堂が建てられたときにその下に移されたとされており、何世紀もの間、祭壇の下に聖パウロの遺骨があると信じられてきた。2006年に石棺が発見されたため、バチカンの考古学者が科学的な調査を行っていた。

 法王によると、石棺にドリルで小さな穴を開け中を確認したところ、「純金の施された紫色の高級な麻の布」や、「骨の一部が見つかり、専門家による炭素14の測定により1世紀か2世紀に生存していた人のものであることが判明した」という。

 また、バチカンのオッセルバトーレ・ロマーノ紙は同日、現存する中で最も古いとされる聖パウロの4世紀後半の肖像画が、19日にローマの地下墓地の壁で見つかったと報じた。
posted by かたつむり at 16:11| 説教 使徒言行録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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